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皇紀2671年度。

(((一即多)))

(((一即多)))

 (((一即多

 ※アレフデイリーメールH250223土への返信を、自身の為に、お許し下さい。

 先ず、私は、善悪を判断致しません。何が善で、何が悪か、規準が無いからです。生き物の本質は、自己保存と、私は思っているので。自己保存に、善悪は無い。法律は、社会のルールで、生き物のルールではない。相対的善。過半数の支持を得られる善。何故かというと、日本国は、間接民主制だからです。支持される、即ち、投票されなければ、日本国首相に成れないからです。だから、日本国首相に成りたい方は、必ず、日本国民の過半数の支持を得られる事をすると。それは、善とは言えない。過半数ではない方々は、悪と思っていると。倫理も、一つの価値観。

 生き物の自己保存は、善悪ではない。

 もしかしたら、非童貞の方々は、聖書の言う『善悪知るの木』を食べたので、善悪の判断が生じて、苦楽を経験し続けているのかもしれません。私の分析では、非童貞の利益を得たので、善悪の判断が生じていると。雄の利益を得たので、雌に担任されていると。

 だから、私は、婚前セックスをした雌と結婚してはいけないと、最初から、言い続けています。婚前セックスをしていない雌・非処女と結婚すると、損だけなので、雄の利益を返金出来たから。これが、世の中の普通と。あとは、損だけ。即ち、徳積みだけ。これが、普通の人間界と。霊界、仏界十二段、神界十段、聖天界五座、天命界と上がっていくと。

 地獄魔界の地殻霊界の雄、雌、地獄魔界の地下凍結霊界の蛇、悪魔、地下神界の無、透明をやっている方々は、雄を返金していないと。雄・阿修羅、雌・天をやり続けていると。蛇と悪魔はイスラームなので、幻覚妄想?。仏陀釈尊が、悟りを開く時に闘った三人の娘が、アラー・悪魔の娘と。仏陀釈尊は、アラー・悪魔の三人の娘の性的誘惑を退けて、阿羅漢・法界を成就したと。仏陀釈尊の母は、仏陀釈尊が生まれて一週間で、亡くなったので、非童貞の仏陀釈尊は菩薩には成らない。母がいないから。童貞だったら、一週間の母がいたのですが。だから、息子が生まれて、出家したと。母がいないのに、母をやったら、テロリストに成るから。仏陀釈尊は、王の道を行かなかった。他国を侵略し続ける王の道を行かなかった。テロリストの道を行かなかった。

 何故か?。母の妹が、自分を育てて下さったから。この『重さ』で、王・テロリストには成らなかったと。これが無ければ、普通は、息子を得た、部下を得た途端、雄・覇王に成る。これが普通です。他の王の方々と、生き様勝負・存在価値の勝負をする。これがテロリストと。雄・阿修羅は皆、テロリストと。他の雄・阿修羅・王が作った法律・ルールに従っているテロリストと。雌とは、英国?。馬肉を食べない。即ち、馬の上司の。

釈迦
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
誕生
 十六大国時代のインド(紀元前600年)釈迦は現在のネパール国境付近(インド説も)のカピラヴァストゥ(kapila-vastu、迦毘羅衛 パーリ語:カピラヴァットゥ)で、国家を形成していた釈迦族の出身である。
 釈迦の故郷であるこのカピラヴァストゥは、今のネパールのタライ(tarai)地方のティロリコート(tilori-kot)あるいはピプラーワー(Piprahwa)付近を中心とする小さな共和制の国で、当時の二大強国マガタとコーサラの間にはさまれた国であった。
 家柄は王(r○ja)とよばれる名門であった。
 このカピラヴァストゥ国の城主、シュッドーダナを父とし、隣国の同じ釈迦族のコーリヤの執政アヌシャーキャの娘・マーヤーを母として生まれ、ガウタマ・シッダールタと名づけられた。

 ガウタマ(ゴータマ)は「最上の牛」を意味する言葉で、シッダールタ(シッダッタ)は「目的を達したもの」という意味である。
 ガウタマは母親がお産のために実家へ里帰りする途中、ルンビニの花園で休んだ時に誕生した。
 生後一週間で母のマーヤーは亡くなり、その後は母の妹、マハープラジャパティーパーリ語:マハーパジャパティー)によって育てられた。
 当時は姉妹婚の風習があったことから、マーヤーもマハープラジャパティーもシュッドーダナの妃だった可能性がある。

 「釈迦は、産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話した」と伝えられている。
 釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、クシャトリヤの教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。
 16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。なお妃の名前は、他にマノーダラー(摩奴陀羅)、ゴーピカー(喬比迦)、ムリガジャー(密里我惹)なども見受けられ、それらの妃との間にスナカッタやウパヴァーナを生んだという説もある。[要出典]

 ※これをされると、王には成らないと。父ではないから。自分が背負う王、やるわけない。武家は、氏族の維持の為に、戦い続けるのだから。自分が上の地位なら、仏陀に成ると。王には成らないと。苦しいだけだから。

出家
 当時のインドでは、ウパニシャッド哲学を基盤としながら、[要出典]ヴェーダ経典の権威を認めない六師外道と称される六人の思想家達、ジャイナ教の始祖となったニガンダ等が既成のバラモンを否定し、自由な思想を展開していた。また社会的にも16の大国、多くの小国が争いを繰り広げ、混乱の度を増すさなかにあった。

 釈迦出家の動機を説明する伝説として、四門出遊の故事がある。ある時、釈迦がカピラヴァストゥ城の東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この身には老も病も死もある(老病死)と生の苦しみを感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった、という。

 私生活において一子ラーフラをもうけたことで、かねてよりの念願の出家の志を29歳、12月8日夜半、王宮を抜け出て果たした。出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、その結果、死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。
 次にアーラーラ・カーラーマを訪れ、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。
 次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。
 この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した。
 そしてウルヴェーラの林へ入ると、父・シュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて五比丘(ごびく)といわれる5人の沙門を同行させた。
 そして出家して6年(一説には7年[要出典])の修行の間、苦行を積んだ。減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。
 その際、この五比丘たちは釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてムリガダーヴァ(鹿野苑、ろくやおん)へ去ったという。

成道
 そこで釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。ナイランジャナー(nairaJjanaa、尼連禅河、にれんぜんが)で沐浴し、村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、気力の回復を図って、ガヤー村のピッパラ (pippala) 樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。
 すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退け大悟する。これを「成道」という。成道の日については、4月8日、2月8日、2月15日など諸説ある[6]。

 日本では一般に12月8日に成道したとする伝承がある。

 ※4月8日は、殉職した小渕恵三首相。2月8日は、天皇。2月15日は、皇太子。12月8日は、石田純一

 しかしこれに明確な根拠はなく、道元の『正法眼蔵』を初出とするのみ[7]であり、これも2月8日説を採る『歴代三宝記』などに説かれる[8]「癸亥年三十、二月八日明星出時、朗然覺悟」を「十二月八日の明星が出るころに、はっきりと悟りを開いた(十二月八日明星出時、朗然覺悟)」と誤読した可能性がある。

 釈迦の成道を記念して、以後仏教では、この日に「成道会(じょうどうえ)」を勤修するようになった。また、ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味の、ブッダガヤと呼ばれるようになった。

 7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起・十二因縁を悟った。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかを、その後28日間にわたって考えた。その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。

 ところが梵天が現れ、衆生に説くよう、くり返し強く請われた。(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。

 ※梵天は、父・シュッドーダナの現実と。3度の勧請とは、父・母・仏陀釈尊と。仏陀釈尊で有る自分を、父が背負っているので、仏陀釈尊に貸しが有る方々に、説く選択をしたと。仏陀釈尊に貸しが有る方々しか、法施を受けられないから、当然の事です。逆の事は出来ない。救済は出来ない。
 麻原彰晃死刑囚も、日本国のカルマ落とししか、出来なかった。悪役しか出来なかった。これ、普通です。救済は絶対に出来ないから。相手の尊厳を犯すから。これ、師の普通です。師は、弟子のカルマ落とししか出来ない。(教諭も、生徒の協力担任(カルマ落とし)しか出来ない。生徒に副担任をつくって上げる事は出来ない。尊厳を犯すから。自己判断・自己選択・自己責任。主体性。自分は、自分の主人。当然の事ですが。)

 そこで釈迦は鹿野苑へ向かい、初めて五比丘にその方法論四諦八正道を実践的に説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ぶ。
 この5人の比丘は、当初は釈迦が苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちコンダンニャがすぐに悟りを得、釈迦は喜んだ。
 この時初めて、釈迦は如来(tathaagata、タター(ア)ガタ)という語を使った。すなわち「ありのままに来る者(タターアガタ)」「真理のままに歩む者(タターガタ)」という意味である。それは、現実のありのままの姿(実相)を観じていく事を意味している。

 ※父母が生存していなければ、菩薩、如来には成りません。神界十段、聖天界五座に成らないから。仏陀釈尊如来は、法界の意味です。仏陀釈尊が仏界を創ったと。月霊界・植物界の母。イエスキリストは月霊界・植物界の娘。
 器が非常に大きい方々だから、地位が有る。その分、位、霊位を得られない。世の中に借りが一杯有るから。
 だから、スカートのイニシエーションをし続けると。スカートのイニシエーションをして、物々交換し続けると。
 器など無い、地位など無い者達が、イエスキリスト、仏陀釈尊のスカートのイニシエーションを通過して、越えていくと。スカートの下の地位、上の位。
 処女と婚前ファーストセックスをした全身黒マント・アラー・悪魔&夫・足抜けしたので両足切断は有り得ない。
 非処女で有る妻を背負わされ続ける現実、損し続ける現実しか有り得ない。

 初転法輪を終わって、「世に六阿羅漢(漢:応供、梵:arhant)あり。その一人は自分である」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。次いでバーラーナシーの長者、ヤシャスに対して正しい因果の法を次第説法し、彼の家族や友人を教化した。古い戒律に、「世に六十一阿羅漢あり、その一人は自分だと宣言された」と伝えられている。

 以上、自身の為に、返信をお許し下さい。(私は、在家会員かな?。私のパーソナリティの一面は、在家信者と。しかし、私のパーソナリティは、一即多なので、無限に有るという事です。))))